皆さん
初めまして
私は東京都大田区在住の視覚障碍者で、現在は大学や専門学校で若い学生さんに医学の講義をしております医師の佐藤正純と申します。
この度ある視覚障碍者のズーム会合で、viwaの奈良里紗さんとご縁ができて、自己紹介をさせていただくことになりましたので、盲人ゆえの読みづらい駄文乱筆の長文ながらしばらくお付き合いいただければ幸いです。
私は1958年(昭和33年)6月10日生まれの現在62歳で、
1977年(昭和52年)3月開成高校卒
1984年(昭和59年)3月群馬大学医学部医学科を卒業して横浜市立大学脳神経外科に入局し、大学や救急指定の関連病院の前線で脳卒中や脳外傷の救急患者さんの脳神経外科手術に明け暮れ、1992年 6月から2年間は横浜市立大学救命救急センターの医局長として後進の指導をしながら横浜市の救急救命士制度の確立などに携わっておりましたが、脳神経外科医として12年、37歳になってそろそろ独り立ちをができるかと思っていた矢先の今から25年前、1996年2月25日医局の同僚と訪れた北海道のニセコスキー場で初めてのスノーボードに挑戦して転倒し、脳挫傷によって1か月昏睡状態のまま生死をさまよい、そのころ確立しつつあった低体温療法を取り入れてくださった札幌医大の先生方のご努力で、1か月後に辛うじて植物状態から脱却して意識を回復しましたが、広範な脳のダメージによって、失明、歩行困難、記憶障害などが重複した重度障害者となって、脳神経外科医の継続は不能となりました。
その時の私は66歳の母、32歳の家内、4歳の長女、0歳の次女を背負った立場で全く将来が見えない失望のどん底におりました。
3か月後に以前の勤務先である横浜市立大学病院に転院、その後神奈川リハビリテーションセンターで様々な機能訓練を受けて受傷から1年半が経過しましたが、重度障害の私にはもう社会復帰は困難と判断され、リハビリ医からは「これ以上何をお望みですか?後はもう自宅に帰ってゆっくり余生を過ごしてください」という厳しい言葉を浴びせられて退院となりました。
その時の悔しい気持ちから、38歳という年齢からも、家族のためにもこのまま埋もれて葉いられない、後はもうリハビリ医には頼らず自らのプログラムで社会復帰を目指して見せる、と誓って点字教室から送られてくるテープ図書のうち医療関係のものを選んで熟読したり、横浜のアマチュアジャズバンドにピアニストとして復帰して、練習に参加したりステージに出演することで脳の活性化を目指してみました。
横浜のジャズバーのステージに出演した時は脳神経外科の後輩が応援に来てくれて、「脳外科佐藤は倒れてもジャズメン佐藤は死なず」と言って喜んでくれました。
また、リハビリセンターで私には不可能だと思われていた点字の習得にも挑戦するために地元大田区で開かれている点字教室に通学して、テープ図書のタイトルを読んだり、選挙で点字投票ができるようになりました。
しかし、1999年12月25日 特別職公務員の休職期間が切れて横浜市立大学医学部を退職と同時に家庭の収入源が完全になくなると、早速社会復帰に向けての方法開拓を迫られることになりました。
まず、失明と記憶障害によって失われた読み書きの能力を取り戻すことが必要だと考
えた私は、2000年1月から新宿区四谷の日本盲人職能開発センター(現日本視覚障害者職能開発センター)に入学して、約1年の個人指導を受けた結果パソコンの音声読み上げソフトを用いてブラインドタッチでテキストファイルの作成やメールの送受信が可能になり、更に大学の同級生やテキストボランティアの方々のご協力で、記憶を回復した医学知識をまとめて文書に作成することが可能になりました。
次に社会復帰のためには視角障害でも勇気を奮って独り歩きをすることが必要だと考えた私は、2001年3月から東京都盲人福祉協会の歩行訓練しの先生に、パソコンを通じて自ら開拓した「言葉の道案内」による単独歩行を提案してご指導をお願いし、地域の点字教室から始まって都心で開業している同級生の歯科クリニック、横浜の大学病院への通院横浜のジャズバンド練習への参加都心の障碍者団体の交流会への参加などと徐々に行動範囲を広げて、ほぼ半年後の秋には、十分な事前準備をしておけば電車とバスを乗り継いで多くの場所へ単独歩行ができる技術を獲得しました。
偶然そのころ横浜市内のある医療専門学校から講師募集がでているのを脳外科教室の同僚や恩師が見つけて私を推薦してくださることになったのは願ってもないチャンスでした。
専門学校としては視覚障碍者が安全に通勤できるか、満足な講義ができるかを不安に思っていたようですが、私は前もって準備をしておいて、面接には一人で訪問し、
帰りも心配して後をついてきたらしい校長にも心配をかけずに迷わず駅まで到着して安全な通勤を証明しました。
また、その年度末には特別講義のチャンスをいただき、そこでは東洋療法と西洋医学の共通の課題である頭痛について、見逃してはいけない頭痛の診断と治療という課題で視力に頼らずに90分の講義を展開して私が十分な臨床医学の知識をもって学生の講義ができることを照明することができて、翌2002年4月から、横浜市内の専門学校東洋療法科・介護福祉科で医学史と介護福祉科の臨床医学一般の非常勤講師として6年ぶりに社会復帰することができました。
最初の90分の講義が終わった時には思わず、「私は生きていて本当に良かった」という言葉があふれて、これが私のリハビリテーション(権利の回復)が達成できた瞬間でした。
それから5年間はこの専門学校で学生を教えながら依頼に応じてリハビリ体験談を執筆したり、新聞、ラジオなどのメディアに出演したり、講演活動などをしておりました、2007年4月からは、専門学校からの紹介で新横浜の介護付有料老人ホームに、常勤の医療相談員として復職し、看護師の質問に応じて医療のアドバイスをしたり、音楽療法で高齢者の脳の活性化を促したり、医療専門学校に出張して救急救命科の学生に臨床医学の講義をしたり1昨年61歳で定年退職するまで12年間勤務しましたが、現在は筑波大学付属視覚特別支援学校理学療法科非常勤講師(神経内科)
文教大学健康栄養学部管理栄養学科非常勤講師(医療概論)の二つの非常勤職を持つのみで、常勤職はありません。還暦を過ぎたとはいえ、今までの経歴を生かしてまだまだ社会に貢献したいという意欲は失っておりませんので、
何かありましたらご紹介いただければ幸いです。
佐藤 正純
Mail: masazumisato@b01.itscom.net
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